相対主義について
思想的な観点の明確化
サイトの立ち上げにあたってに書いた通り、このサイトの第一の目的は「拠点」である。
より広く読まれることでも、より専門的な領域を深めることでもなく、私自身の考えをまとめ、より大きな外部のプラットフォームに公開する前に整理する。
なのでこれは、閲覧者の方に理解を得るためというよりも、むしろ私自身が思想的な観点、立場を明確にし、今後の論考や創作、研究の前提とするための記事だ。
なお日本で「思想や主義」を語るのは何らかの政治・宗教的な主張がある方も多いが、私自身はむしろ「あらゆる主張は絶対ではない」というスタンスの話でもある。
目次
1.相対主義者として
一言で個人の思想を分類するなら、私は相対主義者である。
合理主義や理想主義とも表現できる余地はあるが、思想あるいは立場を一言で表すなら
相対主義者と名乗るのが最も相応しいだろう。
では、相対主義とはなにか?
端的に言うなら「世の中の物事・価値観はすべて相対的なものである」と捉えることだ。
現代では多様性と呼ばれることの多い、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」
「どんな人も自分らしく生きる権利がある」といった現代的な柔軟さと自由を重視する
個人主義は相対主義に近いものだと言えるだろう。
歴史的には文化相対主義、という言葉が有名でもある。
かつて、西洋諸国は世界に進出し、「進んだ西洋の文化と技術とキリスト教の思想で
遅れた世界を救おう」と考えていた。
しかし時代が進むにつれ、そうした一方的な教化は文化的侵略の側面があり、
西洋だけが優れているとするのは傲慢な思想だという一派が生まれた。
現代ではこの文化相対主義は国際社会のスタンダードとなっており、内政干渉は望ましくないとされ、他国間の文化や政治への干渉は最低限に抑えられるべきだとしている。
少なくとも、フランスが世界中をパリ・コピーにしたり、アメリカがすべての国を
ニューヨーク・コピーで埋め尽くしたりするのは望ましいことではないということだ。
例え、部分的にはそうなっているとしても。
故に、私は多様性や相対性を好む。
Aの立場にありながら、Bに対しても理解しようと試みる姿勢がよりよいものだと感じる。
翻って、特定の立場や思想だけが正しくそれ以外は間違っていると主張し、世界を単一に均質化しようとする主張を嫌う。
相対主義者が唯一受け入れられないのは対極にある絶対均質主義だ。特に、それに無自覚なまま「それが当然」という主張はより過激であるため望ましくないと思う。
このサイトとその執筆物は、そのような観点に依拠している。
2.博愛主義と相対主義の違い
相対主義者は根本的に、何か一つの絶対的な思想が常に正しいという考えを否定する。
そしてあらゆる立場の人々が、その立場・環境・状況・生い立ちにおいては決して間違っているわけではないのだと捉える。
それは博愛主義にも似ている。
実際、私自身は世界のすべてに対してそれなりに博愛的な向き合い方をしたいとも思っている。
ただし、相対主義は根底によりドラスティックで現実主義的な考えがある。
世界には戦争がある。犯罪がある。自然界にすら弱肉強食の摂理があり、宇宙でさえ生命よりは死の暗黒に満ちている。
それらの、「死と悪」に対する向き合い方こそが最大の違いと言える。
博愛主義者は死と悪を肯定しない。
生命・存在・善を尊び、生きとし生けるものが幸福であることを願う。
しかし相対主義者にとっては「死と生命・善と悪は相対的なもの」なのだ。
死を望むわけではない。しかし、これまで死んでいった生命や、墓前で死者を悼む心は
「死の尊重」でもある。そこには価値があると認めることだ。
幸福であること以外の生き方――例えば我が子のために身を粉にして働き、不幸にも子供と顔を合わせる機会すらほとんどないままに死んでいった母親。しかし、その生涯は幸福でこそなかったとしても、決して無価値でも間違っていたとも思わない。
そうした様々な観点、一面的ではない複雑で多様な見方に目を向けようとするのが相対主義の立場と言える。
3.相対主義における「価値」
相対主義をさらに二つに分けるのなら、「相対的な無価値」と「相対的な価値」になるだろう。
世界の様々な事物・人・思想のすべてに価値がないと捉えるのも相対主義だ。
世界の様々な事物・人・思想のすべてに価値があると捉えるのも相対主義だ。
後者が博愛主義に近いのなら、前者は虚無主義によく似ている。
しかし一方で、相対主義は基本的にこの両者を重ね合わせた認識をする。
仏教を例に挙げると、大乗仏教の経典(般若心経)における『色即是空 空即是色』の教えは「この世のすべての形あるものは空であり、すべての空は形あるもの」と説いている。
大乗仏教はこの世の苦しみを和らげ、生老病死から解放されることが教えの根底にある。
「物質や目の前の出来事だけにとらわれなくていい」
「だからといってすべてが無意味なのではなく、空こそが意味を形作っている」
この真逆の考えを同時に持つことは、博愛主義にも虚無主義にも偏らず、どちらの考えにも一理があるとする相対主義的なバランスの保ち方を思わせる。
そう、相対主義とは「バランスを保つ」ことを重視する思想なのである。
4.相対主義における「合理的な罪と罰」
悪と罪は、博愛主義でさえも受け入れられないもののうちの一つだ。
「罪をにくんで人を憎まず」とは言う。
しかしそれは言い換えれば、罪そのものは憎まずにはいられないということだ。
相対主義ではどうか。
第一に、犯罪者の多くが生い立ちに素因を抱え、被虐待歴や育児放棄、貧困や精神疾患などの「社会的弱者」としての過去を持っている。
彼ら彼女らは加害者であると同時に被害者でもある。
必要なのは罰ではなく未然に防ぐためのケアなのだ、というのが博愛主義の立場だ。
相対主義の場合、社会的弱者の被害者としての過去が加害者としての行動を誘発するという立場、及び罪を犯す人々に対する同情については同意する。ただしそれだけではなく、神経医学的な、あるいは社会学的な観点からの「原因」としての犯罪心理学についても考慮する。
世間一般が「犯罪者=悪」の構図で一方的なバッシングをするのに賛同はしない。
それと同時に「犯罪者=被害者」という博愛主義的な哀れみの視線に留まることも良しとしない。
捻くれ者とも言えるだろう。
ただ、こうした懐疑的な視点は現代科学の重要な根本でもある。
あらゆる現象は複雑な素因が絡まり合って生じている。
シンプルで単純なだけの真相はそれほど多くない。
一つの罪は、遺伝的な要因、生育環境、親の関わり方、経済状況、空腹や飢え、身体的能力、所属した人間関係、教育や学習、興味関心、そして本人の選択。
それらすべての結果として生まれるものだからだ。
「犯罪者=悪」も「犯罪者=被害者」も、どちらも単純化しているという点では変わらない。
だからこそ特定の視点にとらわれることは望ましくない。
その一方で、「そもそも罪とは本当に罪なのか?」といったより俯瞰的な視座での検討をするのも相対主義の考え方だ。
相対主義は罰を否定しない。
現実的・即時的に目の前の罪を取り締まり、罪には罰を持って制御することが社会治安の維持には不可欠だ。
だがその一方で、悪だというだけの理由で毛嫌いし、犯罪や悪という現象の検討をやめるべきでもない。
すべての戦争が悪であり罪だという共通認識は、少なくとも中世には存在しなかった。
それは一種の経済活動であり、外交であり、勇猛な英雄や貴族の誇り、宗教的信仰を賭けた大舞台であった。
倫理的な観点はさておくのなら、その経済的・外交的意義は疑いなく事実としてある。
そもそも自然界にまで遡っても弱肉強食の摂理は闘争と競争を前提としている。
なら、その合理性は? 罪や悪、闘争を否定する立場と肯定する立場、それぞれの考えはどのようなものなのか?
その双方をまずは考慮し検討してみるという姿勢。
先入観でどちらかが正しい、どちらかが間違っているというスタンスを慎重に避けること。
それが相対主義の理想と言える。
もちろん、目指すべき理想であるからこそ、常に実現できているとは限らないのだが。
5.相対主義における「目指す目的」
ここまで相対主義とは先入観を避け、あらゆる立場を考慮してバランスを保つ思想であると紹介してきた。
しかしその一方で、相対主義には古くから言われる反論もある。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「相対主義はそれ自体が絶対的に正しいと主張できない」という矛盾を指摘している。
これは当時の哲学における真理追及の立場では、そもそも真理の追究を放棄するような
相対主義に違和感を抱いたという理由が大きいだろう。
しかし現代では、そもそも何かが「絶対的に正しい」という主張は稀である。
『真理』について語る者がいれば怪訝な顔をされ、宗教家と見なされることの方が多い。
相対主義はそもそもが主観によって立場や考え、価値観が異なることを前提としているので、「相対主義が正しい」という主張をする必要そのものがない。
あくまで、相対主義によって世界を捉える相対主義者にとっての物の見方が相対主義だというだけのことである。
そうでない考えを持つ人々を絶対的に否定する理由など、それこそない。
しかしもう一つ、相対主義が陥りがちな陥穽がある。
それは「目的を見失う」ことによる虚無主義への失墜だ。
仏教を例に挙げ、博愛主義と虚無主義の間でバランスを保つことが相対主義の立場だと述べた。しかしそもそも、万物に価値があることと万物が無価値であることにはほとんど違いがないのである。
「生きようとすること」と「死のうとすること」や「存在すること」と「存在しないこと」がどれも等しく価値があるのであれば、それは等価という点では無価値であるのと変わらない。
何もしなくても生きていてもいい、という点を鑑みれば自由な生への肯定である。
しかし「何かをして生きることと、何もせずに死ぬことにはさほどの違いはない」
と捉えれば、それは生きる努力の否定になってしまう。
これこそまさに、バランスを保てなくなった結果としての虚無主義への失墜といえる。
ゆえに相対主義には、そもそも何らかの主観的な目的意識がなければならない。
「すべての立場は相対的だ。しかし『私自身は』この立場を取る」という風に。
その目的意識さえあれば、例えば「『生きる』という立場を前提に、死を望む立場の考えについても研究してみよう」といった形で適度な距離感を保って対象の観察や研究に臨める。
客観視とは、主観があってこそバランスを保つことができる。
相対主義とは本質的に「何らかの目的に臨むためのスタンス」なのである。
私自身は根底に「世界を肯定したい」という主観的な目的がある。
幼児期の体験が価値観を形成すると言うが、私の母はおままごとでアンパンマンとバイキンマンをどちらも友達として扱って私に遊んでみせたのだそうだ。
善と悪、そのどちらもただ否定するのではなく向き合って見つめ、世界の様々な在りようを肯定し、その上で現実とどのように折り合いをつけるべきかを考えながら生きたい。
そうした立場が、私とこのサイトの前提にはある。