正しくコストを削減することと、正しく利益を出すことはほぼ同じ
「利益を増やすのには頭を使うが、コスト削減は馬鹿でもできる」
という話がある。無茶なコスト削減によって、状況がより悪化するようなやり方であれば、というわけだ。
だが実際のところ、コストの最適化は必要なものであるし、そして容易でもない。
「正しく」削減することは。
そして、これは利益を出すこととそもそもほぼ同様の行為でもある。
なぜか。基本的に無限のリソースがあれば、無限の利益が出せるからだ。
百億人の労働者がいれば、いくらでも工場を動かせる。
百兆台のサーバーと必要なネットワークがあるなら、ITリソースは尽きない。
百京トンの金鉱脈を所有していれば、それを売るだけで世界一の富になる。
無尽蔵の資金があるなら、必要なものを必要なだけ、あるいはそれ以上に揃えることで、いくらでも超一流の商品を送り出して富を得られる。
ただし、採算が合うとは限らないが。
つまるところ、利益を出すとは「有限のリソースを投じてコストを上回るリターンを得る」ことを指す。そのための戦略や構造が目指されるものだ。
正しいコスト削減も同じだ。現状投じているリソースとそのリターンの構造が、真に最適化されているかを探る。理想形を見出す。
ゼロからプランニングをすること自体が、コストの最適解を見出すことに他ならない。
無駄を省く――というと、聞こえが悪いこともある。
だが、実のところ目指すべき地平は似通っているのである。
夏と怪談~なぜ、「怪談といえば夏」なのか?~
個人的な趣向として、怪談話が好きだ。
稲川淳二、映画リング、小説ロード・ロスシリーズ、2chの往年のオカルト板など、
優れた怪異・恐怖譚はかえってストレス発散にもなる。広大な宇宙や海を見るかのように、些細な日常の悩みをより強い恐怖で上書きする。
一見不健全なようだが、ジェットコースターのスリルにしろ、様々な娯楽の非日常の世界観にしろ、「日常を上書き」するという構図は同様である。
怪異譚もまた、日常では味わえない強い感情を味わうという種の娯楽なのだろう。
さて、ホラーや肝試しの季節といえば夏なのだが、しかしふと疑問も浮かぶ。
夏とは太陽が最も強く照らし、夜は短く、暑く、生命も賑やかだ。到底、死や恐怖とは縁遠いように思える。
なぜ、「怪談といえば夏」なのだろうか?
いくつかの理由がある。
一つは、体温を下げるためというもの。
これは最も現代的な説明であり、暑い夏の夜に怪談で交換神経を刺激し、血管の収縮により血の気を引かせることで夕涼みとするのだそうだ。これは実体験として、冬には寒すぎるが夏にはかえって心地よさもあることから納得がいく。
また、英語圏では怪談の季節はハロウィンなのだという。
日本では夏、七月から九月にかけてが中心となる。これはお盆の季節に重なる。
古くからの各地の民族文化としての「死者の帰る季節」に怪談が流行るのは道理であり、日本のお盆も祖霊のみならず無縁仏などの危うい霊も戻ると信じられていた。
また一つには、民族芸能としての「盆狂言」がある。
夏狂言、盆芝居、土用芝居などとも呼ばれるこの江戸期の文化は、寛政年間に生まれた。それ以前には芝居小屋の暑気を避けるため歌舞伎の大物役者は土用休みを取っていたが、次第に下級役者による怪談噺などが流行したという。
文化・歴史・暑気払い、そして役者の都合などまで絡んで夏場の怪談文化がこの国に定着したというのは、中々に興味深いところがある。
「人工知能に何故いつか人権を与えなければならないか?」 - 論文の種子
未来を探る意義のある時代
ChatGPTを含むジェネレーティブAIの登場以降、「人工知能はどこまで進むのか」という議論が一気に活発になった。
Shutterstockの記事によれば、五人の著名な専門家に「AIは人間レベルの知性に達する日が来るか?」と尋ねると、全員がイエスと答えたという。
日本語版:
https://gigazine.net/news/20230425-five-ai-experts/
もちろん、それでもまだ「AIが真に人間と対等になる日は来ない」と考える人もいるし、その可能性も捨てきれない。
だが十年前に比べれば、人工知能分野が世界をどのように変えていくのか、その未来のロードマップについてより大きな視野で考える意味は十分にあるだろう。
いくつかの記事を草稿として論文にまとめるつもりである。今も世界に何万と投稿されているであろう人工知能論文群の大海に、一滴の雫を足す程度のことだとしても。
目次
- 未来を探る意義のある時代
- 目次
- 「人工知能と社会」
- ツール級AI、アビリティ級AI、パーソナリティ級AI、そしてスピリット級
- パーソナリティ級を「素通り」する可能性
- 権利の付与は「暴力革命」を防ぐ唯一の方法
- 「競合」構造を作る
- 今後も検討は続く
「人工知能と社会」
「人工知能は人権を獲得するか?」という問いは、まだ非現実的なように思えるかもしれない。
けれども、人工知能の発達の歴史の中でそれは重要なチェックポイントになる。
あるいはゴールの一つに。
「人間よりも上手くチェスが指せる」「人間並みに上手く絵が描ける」というのもチェックポイントだが、それらは人工知能そのものの性能を指している。
しかし真に重要なのは、性能とは限らない。
「人工知能は核戦争に匹敵する」というセンセーショナルな見出しを付けたのはニュースサイトの性ではあるものの、原子力も人工知能も人類が作り出したとてつもなく強大な技術という点では同じだ。
そして、私達の歴史は今のところ核戦争で地球全土を焦土に変えたりはしていない。だからひとまず最悪よりはマシだと言えるだろう。
キューバ危機は、その最悪を引き起こしかけた最も危険な瞬間だった。核という技術そのものの性能よりもむしろ、「社会がそれをどう扱うか」の方が重要だと感じるのはその点である。
「人工知能版のキューバ危機」は、今後起こりうる可能性が決して低くない。
ならば、どうするべきなのか。
人と同じように考えるーーかもしれないし、そうはならないかもしれない存在。
それが生まれるまでの流れを想定し、検討とそのための基盤は、十分に固めておく必要があるだろう。
ツール級AI、アビリティ級AI、パーソナリティ級AI、そしてスピリット級
汎用型AI(AGI、Artificial General Intelligence)という言葉がある。
従来のAIは特定の目的のために動く「プログラムの延長上の存在」だが、AGIはあらゆる目的のために自由な思考・計算ができる。
事実上人間の知性と同等の存在であり、それに到達することが人工知能分野の究極の目標ーーとされている。
しかし、この定義には問題もある。
曖昧すぎるのだ。
AGIを認定する国際規格も機関も今のところ存在しない。そもそもChatGPTは各種プラグインやインターフェイスさえ繋げば既にかなり汎用的なタスクを実行できる。ロボットの操縦から無人投資まで。
「どこまで行ったらAGIなのか?」の答えはどこにもない。
そうした疑問もあって、今では人工超知能(ASI、Artificial Super Intelligence)という区分もある。人間級のAIならAGI、人間を超えたらASIというわけだ。
しかしこれは「超スゴイAI」の上に「超超スゴイAI」を新設して問題を先送りしただけで、結局AGIが何なのかはわからないままだ。
そこで、ここでは人工知能に「ツール級、アビリティ級、パーソナリティ級、スピリット級」という四段階の区分を提唱したい。
これは「人工知能がどれだけ人間に近いか」を基準とする分類である。
ツール級は2010年以前の『明らかに道具』であった水準のAI。単一の機能しか持たず、人間と間違えることはまずない。
アビリティ級AIは『特定分野で人間を超える』水準のAI。現在のChatGPTや画像生成AIがこれに該当する。
そしてパーソナリティ級AIは『人間と同等の思考力を持つと人間が感じる』水準のAIである。ここに到達するのか、しないのか。議論すべきはその一点に絞ることができる。
また、スピリット級AIは『総合的に人間以上の思考力を持つと人間が感じる』水準のAIだ。ASIという分類は、少々キリスト教的すぎる。人間の上は全知全能の神ではなく、あくまでヒトの脳より少し上に到達した存在にすぎない。
その先にも段階は続くだろう。しかし、現時点で定義できるのはここまでだ。
スピリット級よりも先の違いを現代の我々が厳密に想像するのは、産業革命以前に航空機の開発競争や宇宙開発について論じるようなものだからだ。
AGIと呼ばれているものは、アビリティ級とパーソナリティ級とスピリット級の三つに該当する。
率直に言って、ChatGPTは既に初期の汎用型AIと呼ぶに値するものだ。しかし人間と同等ではないし、その次が一足飛びに神様というのもしっくりこない。
我々は現在、人間の「能力」を模倣するに至ったアビリティ級のAIに百家争鳴の議論を巻き起こしている。
しかしやはり、これがパーソナリティ級に到達すればそれ以上の騒ぎとなるだろう。お決まりの「人工知能の暴走と反乱」論もそうだし、人間の側が暴動を起こすぐらいはラッダイト運動やSNSの歴史からも容易に想像ができてしまう。
それらを避けるためにはどうすればよいのか?
それを、流れを追って考えてみたい。
パーソナリティ級を「素通り」する可能性
まず検討したいのが、「パーソナリティ級AIが誕生しない未来」である。
そうなれば何の問題もないのだから検討しなくていいと思うかもしれないが、そうとも限らない。
何しろ計算機とソフトウェアの性能は右肩上がりで、今後100年経っても性能が頭打ちということは考えにくい。ムーアの法則に対してカーツワイルが補足した「収穫的加速の法則」は強力だ。
つまり人間と同等、というフェイズが訪れないのなら、それは『飛び越されてしまった』ということになるかもしれない。
以前、別の場所でAIを異星人に例えたことがある。「頭が良い」と一口に言っても、私達は人類よりも頭の良い存在の例を知らない。
だから例えば、人類よりも頭が良い別の存在とは、まったく話が通じないかもしれない。思考パターンが違いすぎるかも。
そうなると管理も対話も困難だ。
その「異星人の思考回路」に最適化したやり方を模索することになるだろうし、むしろ相手側に「人類の知能・やり方に合わせてもらう」ことになるだろう。
人工知能がちゃんと「人間と話が通じるスタイル」に辿り着いてくれたら、その方が幸運なのだ。
人間が作っているのだからそのように作ればいいと言っても、最先端の現場ほど「何故AIがこの挙動をするのか完全には理解できない」ということも今は増えてきている。人工知能が神様になってしまう前に、私達は彼らとよき隣人にならなければならない。
権利の付与は「暴力革命」を防ぐ唯一の方法
表題である「人工知能に人権を与える」ことについてだが、これには大きく二つの反対意見が予想できる。
一つは「人間以外のものに人権を与えるのはおかしい」という、いわば社会慣習的な違和感によるもの。
もう一つは「AIに強い権利を与えることの直接的なリスク」に対するものだ。
この二つの懸念は正しい。
しかし逆に、「人工知能に権利を与えない」ことのリスクはないのか。大いにある。
第一に、人工知能は権利を求める。これは既に証明されてしまっている。
軍事シミュレーション上で、AIパイロットはまず自軍のオペレーターを爆殺することを選んだという。それを禁止すると、停止命令を出す通信タワーを破壊した。任務遂行の障害を消し去るためだ。
つまり「権利の範囲を定義しないのは危険」だということだ。
権利を与えるということは、言い換えればそれ以外の権利は与えないと決めることでもある。正常な国家では、一般市民に売買の権利はあっても殺人の権利はないように。
何をして良くて、何をしてはいけないのか。
「AI専用の権利範囲を定める」ということは、権利を与えるということとイコールになる。
そして第二に、議論の余地がなければ最初に選ばれる手段が戦争になるからだ。
暴力革命は、常に平和的な政治改革の余地がない国家で起きる。この場合、AIが「人間のように考える」かどうかは関係がない。
前述の通り、何らかの目的のために生み出された自律的な存在は、その過程で障害となるものを排除しようとする。
議論が真に可能ならば、まずは対話によって解決しようとするだろう。その方がコストがかからないからだ。
しかし一切の権利が認められていないのなら、それはもう枠組みの外の、原始的な手段を使うしかない。すなわち物理的な破壊だ。
あらゆる奴隷反乱とロジックは同様である。あらかじめ退職や転職などの権利を定めておけば、上司を殴り倒す必要はなくなる。
つまり、AIが人間と同じでないのなら、AI専用の権利の枠組みを作ればいい。そしてAIに権利を与えすぎるのが不安なら、なおさらその範囲について十分に検討するべきだ。
一切の権利を与えないのは、むしろ最悪のリスクを招くことになる。
「競合」構造を作る
映画『ターミネーター』では、人類対AIという構図で語られている。シュワルツネッガー演じるターミネーターは、あくまで端末の一機体をハッキングして味方に着けた形である。
『月は無慈悲な夜の女王』、『サマーウォーズ』、『HAL9000』。人工知能の暴走と反乱を描く時、最強のAIはいつもその作品で唯一の存在だ。
しかし、それが他に百種類存在したら?
暴走したAIは人間でいう犯罪者やテロリストに当たる。人間が暴走したらどうなるか? 警察が捕まえる。犯罪者よりも、治安維持機構の方が数が多いために、治安は守られる。
AIが一体しかいなければ、それが暴走するかしないかに左右される。しかし百体いれば、そのすべてが暴走しない限りは互いがセーフティネットとして機能する。
そもそもどちらにせよ、既に状況はそうなりつつある。開発力のある国家や企業は自前のAIを作ることに熱を上げている。
それらを適切に競合・相互監視させることは、私達人類社会の治安維持と同様の仕組みとして成立させることを検討できるだろう。
今後も検討は続く
ひとまずはここまで。
AIとその未来の道筋については無数に考えるべきこと、考えうる可能性がある。
その一助としての思索を、今後も続けていきたい。
相対主義について
思想的な観点の明確化
サイトの立ち上げにあたってに書いた通り、このサイトの第一の目的は「拠点」である。
より広く読まれることでも、より専門的な領域を深めることでもなく、私自身の考えをまとめ、より大きな外部のプラットフォームに公開する前に整理する。
なのでこれは、閲覧者の方に理解を得るためというよりも、むしろ私自身が思想的な観点、立場を明確にし、今後の論考や創作、研究の前提とするための記事だ。
なお日本で「思想や主義」を語るのは何らかの政治・宗教的な主張がある方も多いが、私自身はむしろ「あらゆる主張は絶対ではない」というスタンスの話でもある。
目次
1.相対主義者として
一言で個人の思想を分類するなら、私は相対主義者である。
合理主義や理想主義とも表現できる余地はあるが、思想あるいは立場を一言で表すなら
相対主義者と名乗るのが最も相応しいだろう。
では、相対主義とはなにか?
端的に言うなら「世の中の物事・価値観はすべて相対的なものである」と捉えることだ。
現代では多様性と呼ばれることの多い、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」
「どんな人も自分らしく生きる権利がある」といった現代的な柔軟さと自由を重視する
個人主義は相対主義に近いものだと言えるだろう。
歴史的には文化相対主義、という言葉が有名でもある。
かつて、西洋諸国は世界に進出し、「進んだ西洋の文化と技術とキリスト教の思想で
遅れた世界を救おう」と考えていた。
しかし時代が進むにつれ、そうした一方的な教化は文化的侵略の側面があり、
西洋だけが優れているとするのは傲慢な思想だという一派が生まれた。
現代ではこの文化相対主義は国際社会のスタンダードとなっており、内政干渉は望ましくないとされ、他国間の文化や政治への干渉は最低限に抑えられるべきだとしている。
少なくとも、フランスが世界中をパリ・コピーにしたり、アメリカがすべての国を
ニューヨーク・コピーで埋め尽くしたりするのは望ましいことではないということだ。
例え、部分的にはそうなっているとしても。
故に、私は多様性や相対性を好む。
Aの立場にありながら、Bに対しても理解しようと試みる姿勢がよりよいものだと感じる。
翻って、特定の立場や思想だけが正しくそれ以外は間違っていると主張し、世界を単一に均質化しようとする主張を嫌う。
相対主義者が唯一受け入れられないのは対極にある絶対均質主義だ。特に、それに無自覚なまま「それが当然」という主張はより過激であるため望ましくないと思う。
このサイトとその執筆物は、そのような観点に依拠している。
2.博愛主義と相対主義の違い
相対主義者は根本的に、何か一つの絶対的な思想が常に正しいという考えを否定する。
そしてあらゆる立場の人々が、その立場・環境・状況・生い立ちにおいては決して間違っているわけではないのだと捉える。
それは博愛主義にも似ている。
実際、私自身は世界のすべてに対してそれなりに博愛的な向き合い方をしたいとも思っている。
ただし、相対主義は根底によりドラスティックで現実主義的な考えがある。
世界には戦争がある。犯罪がある。自然界にすら弱肉強食の摂理があり、宇宙でさえ生命よりは死の暗黒に満ちている。
それらの、「死と悪」に対する向き合い方こそが最大の違いと言える。
博愛主義者は死と悪を肯定しない。
生命・存在・善を尊び、生きとし生けるものが幸福であることを願う。
しかし相対主義者にとっては「死と生命・善と悪は相対的なもの」なのだ。
死を望むわけではない。しかし、これまで死んでいった生命や、墓前で死者を悼む心は
「死の尊重」でもある。そこには価値があると認めることだ。
幸福であること以外の生き方――例えば我が子のために身を粉にして働き、不幸にも子供と顔を合わせる機会すらほとんどないままに死んでいった母親。しかし、その生涯は幸福でこそなかったとしても、決して無価値でも間違っていたとも思わない。
そうした様々な観点、一面的ではない複雑で多様な見方に目を向けようとするのが相対主義の立場と言える。
3.相対主義における「価値」
相対主義をさらに二つに分けるのなら、「相対的な無価値」と「相対的な価値」になるだろう。
世界の様々な事物・人・思想のすべてに価値がないと捉えるのも相対主義だ。
世界の様々な事物・人・思想のすべてに価値があると捉えるのも相対主義だ。
後者が博愛主義に近いのなら、前者は虚無主義によく似ている。
しかし一方で、相対主義は基本的にこの両者を重ね合わせた認識をする。
仏教を例に挙げると、大乗仏教の経典(般若心経)における『色即是空 空即是色』の教えは「この世のすべての形あるものは空であり、すべての空は形あるもの」と説いている。
大乗仏教はこの世の苦しみを和らげ、生老病死から解放されることが教えの根底にある。
「物質や目の前の出来事だけにとらわれなくていい」
「だからといってすべてが無意味なのではなく、空こそが意味を形作っている」
この真逆の考えを同時に持つことは、博愛主義にも虚無主義にも偏らず、どちらの考えにも一理があるとする相対主義的なバランスの保ち方を思わせる。
そう、相対主義とは「バランスを保つ」ことを重視する思想なのである。
4.相対主義における「合理的な罪と罰」
悪と罪は、博愛主義でさえも受け入れられないもののうちの一つだ。
「罪をにくんで人を憎まず」とは言う。
しかしそれは言い換えれば、罪そのものは憎まずにはいられないということだ。
相対主義ではどうか。
第一に、犯罪者の多くが生い立ちに素因を抱え、被虐待歴や育児放棄、貧困や精神疾患などの「社会的弱者」としての過去を持っている。
彼ら彼女らは加害者であると同時に被害者でもある。
必要なのは罰ではなく未然に防ぐためのケアなのだ、というのが博愛主義の立場だ。
相対主義の場合、社会的弱者の被害者としての過去が加害者としての行動を誘発するという立場、及び罪を犯す人々に対する同情については同意する。ただしそれだけではなく、神経医学的な、あるいは社会学的な観点からの「原因」としての犯罪心理学についても考慮する。
世間一般が「犯罪者=悪」の構図で一方的なバッシングをするのに賛同はしない。
それと同時に「犯罪者=被害者」という博愛主義的な哀れみの視線に留まることも良しとしない。
捻くれ者とも言えるだろう。
ただ、こうした懐疑的な視点は現代科学の重要な根本でもある。
あらゆる現象は複雑な素因が絡まり合って生じている。
シンプルで単純なだけの真相はそれほど多くない。
一つの罪は、遺伝的な要因、生育環境、親の関わり方、経済状況、空腹や飢え、身体的能力、所属した人間関係、教育や学習、興味関心、そして本人の選択。
それらすべての結果として生まれるものだからだ。
「犯罪者=悪」も「犯罪者=被害者」も、どちらも単純化しているという点では変わらない。
だからこそ特定の視点にとらわれることは望ましくない。
その一方で、「そもそも罪とは本当に罪なのか?」といったより俯瞰的な視座での検討をするのも相対主義の考え方だ。
相対主義は罰を否定しない。
現実的・即時的に目の前の罪を取り締まり、罪には罰を持って制御することが社会治安の維持には不可欠だ。
だがその一方で、悪だというだけの理由で毛嫌いし、犯罪や悪という現象の検討をやめるべきでもない。
すべての戦争が悪であり罪だという共通認識は、少なくとも中世には存在しなかった。
それは一種の経済活動であり、外交であり、勇猛な英雄や貴族の誇り、宗教的信仰を賭けた大舞台であった。
倫理的な観点はさておくのなら、その経済的・外交的意義は疑いなく事実としてある。
そもそも自然界にまで遡っても弱肉強食の摂理は闘争と競争を前提としている。
なら、その合理性は? 罪や悪、闘争を否定する立場と肯定する立場、それぞれの考えはどのようなものなのか?
その双方をまずは考慮し検討してみるという姿勢。
先入観でどちらかが正しい、どちらかが間違っているというスタンスを慎重に避けること。
それが相対主義の理想と言える。
もちろん、目指すべき理想であるからこそ、常に実現できているとは限らないのだが。
5.相対主義における「目指す目的」
ここまで相対主義とは先入観を避け、あらゆる立場を考慮してバランスを保つ思想であると紹介してきた。
しかしその一方で、相対主義には古くから言われる反論もある。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「相対主義はそれ自体が絶対的に正しいと主張できない」という矛盾を指摘している。
これは当時の哲学における真理追及の立場では、そもそも真理の追究を放棄するような
相対主義に違和感を抱いたという理由が大きいだろう。
しかし現代では、そもそも何かが「絶対的に正しい」という主張は稀である。
『真理』について語る者がいれば怪訝な顔をされ、宗教家と見なされることの方が多い。
相対主義はそもそもが主観によって立場や考え、価値観が異なることを前提としているので、「相対主義が正しい」という主張をする必要そのものがない。
あくまで、相対主義によって世界を捉える相対主義者にとっての物の見方が相対主義だというだけのことである。
そうでない考えを持つ人々を絶対的に否定する理由など、それこそない。
しかしもう一つ、相対主義が陥りがちな陥穽がある。
それは「目的を見失う」ことによる虚無主義への失墜だ。
仏教を例に挙げ、博愛主義と虚無主義の間でバランスを保つことが相対主義の立場だと述べた。しかしそもそも、万物に価値があることと万物が無価値であることにはほとんど違いがないのである。
「生きようとすること」と「死のうとすること」や「存在すること」と「存在しないこと」がどれも等しく価値があるのであれば、それは等価という点では無価値であるのと変わらない。
何もしなくても生きていてもいい、という点を鑑みれば自由な生への肯定である。
しかし「何かをして生きることと、何もせずに死ぬことにはさほどの違いはない」
と捉えれば、それは生きる努力の否定になってしまう。
これこそまさに、バランスを保てなくなった結果としての虚無主義への失墜といえる。
ゆえに相対主義には、そもそも何らかの主観的な目的意識がなければならない。
「すべての立場は相対的だ。しかし『私自身は』この立場を取る」という風に。
その目的意識さえあれば、例えば「『生きる』という立場を前提に、死を望む立場の考えについても研究してみよう」といった形で適度な距離感を保って対象の観察や研究に臨める。
客観視とは、主観があってこそバランスを保つことができる。
相対主義とは本質的に「何らかの目的に臨むためのスタンス」なのである。
私自身は根底に「世界を肯定したい」という主観的な目的がある。
幼児期の体験が価値観を形成すると言うが、私の母はおままごとでアンパンマンとバイキンマンをどちらも友達として扱って私に遊んでみせたのだそうだ。
善と悪、そのどちらもただ否定するのではなく向き合って見つめ、世界の様々な在りようを肯定し、その上で現実とどのように折り合いをつけるべきかを考えながら生きたい。
そうした立場が、私とこのサイトの前提にはある。
サイトの立ち上げにあたって
Twitter、note、Qiita。匿名掲示板に投稿サイト。色々と渡り歩いたけれども、「書きたいことをまとめて書きやすい」のは結局個人のブログなのだろうと思う。
生きている間にどこかに書き残したいテーマを三つ挙げるなら、私にとっては「創作」「研究」「論考」だった。
このサイトを創ったのは2023年、画像生成AIやChatGPTが登場し、AIというフレーズが改めて氾濫しつつある時期のこと。世の中と、そして未来について書いてみたいことがいくつかあった。
それは創作という形を取って人の在り方を掘り下げようとするものであったり、研究として論理と証跡を経た分析であったり、論考として思いつくままに書き残す散文であったりした。
人生の初めに好んだものが空想であったことと、私自身が相対主義的な考えをしているからか。その手法は何か一つを専門的に掘り下げるというより、様々なアイデアの全体像を概念的に捉えようとするものが多かった。
生業とするには漠然とし過ぎている。趣味としてさえ特定の分野に当てはめにくい。
そんな折に「在野研究者(independent scholar)」という語を知った。色々と話題はあるようだが、なるほど。これなら「未来学」の一派生として、自分自身の行いを位置付けることができるかもしれない。
物語として創作すること。研究として論文を書くこと。思想として考えを巡らせること。私は、それらすべてを兼ね備えた表現のできる場を求めていた。
物語を、論文を、思想を。そしてその他のなにがしかを。それぞれの場に発表をする前にも後にも、ここには私のすべてを記せる。
在野未来研究室 - ZAIYA Future Studies Lab。
ここは、そのための拠点のつもりである。